屯田兵制度と琴似について



北海道の歴史に重要な足跡を残した琴似屯田兵。
ここでは、屯田兵制度とはそもそも何だったのか
屯田兵と北海道の開拓、
そして琴似との関わりは、など
基本的な事柄をご説明します。



琴似と屯田兵制度

 札幌の西の拠点「琴似」。その歴史は琴似発寒川とともにありました。川がつくった扇状地の一帯には続縄文期の遺跡が残されており、少なくとも奈良・平安朝の昔からこの地に人が生活していたことを伺い知ることができます。
 しかし、現在のような札幌でも有数の繁華街として琴似が発展するに至る歴史的なきっかけは、明治7年の琴似屯田兵村の誕生であったと言って良いでしょう。
 屯田兵制度は、明治6年11月、北方警備と北海道開拓を目的とした黒田清隆開拓使次官の上表文が允裁を受け、翌年「屯田兵条例」が作られたことに始まります。その条例に基づき、後に北海道全体では37の屯田兵村がつくられることになるのですが、その先鞭といえる日本初の屯田兵村こそ琴似につくられたそれであったのです。

そもそも屯田兵とは

 では、その屯田兵とはどのような人達だったのでしょう。
 五稜郭戦争が終わり(明治2年5月)、国内が新政府によってほぼ統一されると、政府は蝦夷地を北海道と改称して開拓使(未開地域の開拓を行う太政官の役所)をおき、北海道の開拓に力をいれました。
 実際に開拓にたずさわったのは、大別すれば一般移民、囚人、屯田兵となるのですが、なかでも屯田兵は、「兵」というその名のとおり軍隊であり、平時こそ開墾に従事しているものの、有事には銃を持って戦う、厳しい規律ある軍団でした。
 一番の仮想敵国といえるのが、なしくずし的にシベリアに侵略し、その反動として不凍港の確保など南下政策をとっていたロシアでした。特に当時の樺太は日露雑居の地でしたが、ロシア人が日本人の村を襲い略奪するなど、常に問題が絶えなかったと記録されています。
 後に千島樺太交換条約によってロシアの脅威はやや薄らぎますが、北方に対する牽制という意味でも屯田兵を北海道に配置する必要性があったわけです。実際に屯田兵の暮らしは、軍事訓練と開墾の二本立てというべきものでした。

なぜ琴似の地が選ばれたのか

 では、なぜ琴似の地が日本初の屯田兵村に選ばれたのでしょう。これは一朝一夕に決められたものではなく、歴史的観察に基づき熟慮されたものといえます。
 「琴似」という場所の選定にはさまざまな要素があったのですが、主に
1. 開拓使本府のある札幌に近かったこと
2. 小樽との流通もチェックできる場所であったこと
3. 以前から開拓が進んでいた土地であったこと
が主な選定要因であったとしてよいでしょう。
 実際、琴似の地は安政年間より調査が進められており、開墾の適地として注目されていましたし、兵村が出来た明治7年には既に本願寺移民などの一般入植者が、この地で開墾をしていました。第一弾の屯田兵村をこういう地につくり、確実な成功をおさめることで、後の道内各地の兵村設立のはずみにしようと考えたともいえるでしょう。

入植者はどんな人達だったのか

 いまでこそフロンティア・スピリットなどと、開拓が明るいトーンで語られる場合が多々ありますが、琴似屯田兵の人々すべてが、すすんでこの軍団に参加したのだというには語弊があります。くわえて当時の北海道は多くの人々にとって得体の知れぬ酷寒の地と思われていました。それを考える時、琴似屯田の特殊性を考慮に入れなければなりません。
 実は、琴似屯田兵になったほとんどの人達が、明治維新の際「賊軍」とされ、いわれなき差別を受けた東北地方の武士達だったのです(主に仙台藩亘理、次いで会津藩)。屯田兵は、その名のとおり軍隊であったことは前述しましたが、「官軍」と呼ばれた薩摩などの人達が士官として命令を下すなか、東北地方からやってきた屯田兵は、ほとんどが当初、兵卒(軍隊でもっとも下の位)として扱われました。
 琴似神社に仙台藩亘理の藩祖伊達成実公と会津藩の藩祖保科正之公が神霊として祭られてるのは屯田兵と無関係ではありません。この神社こそ、故郷を離れ、見知らぬ寒冷地で厳しい訓練や開拓にとりくんだ琴似屯田兵達の心のよりどころであったのです。



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